※なまら蝦夷8号に投稿させてもらった内容に加筆・修正したものです。


2006年8月の事です。僕は家族と共に北海道・鹿追町への移住を決心し、

翌年4月には移り住む予定にしていました。

しかし、当時、仕事については全く見通しが立っていませんでした。

意を決して僕は数日間まとまった休みを取り、鹿追へ職探しの旅に向かいました。

バイクで大阪から敦賀に向かい、新日本海フェリーに乗船。

苫小牧東港に到着したのは夜9時頃。

その日は十勝へ向かわず、苫小牧市内のホテルに泊まりました。

そのホテルで、何気なくテレビをつけて見ていると、

『美の巨人たち』という芸術家の人生を作品と共に紹介する番組をやっていて、

この時に取り上げられていたのが、何と神田日勝と鹿追の風景。

 

神田日勝は、町内では誰もが知っている画家。

その番組では家族と共に鹿追へ入植し、農家として畑を開墾し、

酪農を営みながら画家として生計を立て、若くして亡くなった彼の生涯が

鹿追の美しい景色と共に紹介されていました。

僕はその番組を目にしたのは後にも先にもその時だけ。

あまりの偶然に驚き、食い入るようにその番組を見ました。

見終わった後、きっと、この偶然には何か意味があるんだろうなあと

ぼんやり考えながら、眠りにつきました。

 

翌日、鹿追町に到着し、役場で移住の相談をした後、

『(神田日勝の)美術館をみたいんですが?』と役場の職員の方に尋ねた所、

『あー、だったら、そこに副館長がいるから呼んであげるよ。』

といって紹介してもらったのは、当時、美術館の副館長だった故・菅館長。

菅さんは快く自ら美術館の中で作品1つ1つを丁寧に紹介してくださり、

鹿追に里帰りしていた『室内風景』も偶然鹿追で展示されていたので、

作られた時代背景や1つ1つの意味について解説をお聞きすることができました。

 

その後、仕事探しを再開し、何ができるかを考えながら何かヒントがないかと

町内をバイクで走ってみたものの、特に当てがある訳じゃなく、

誰かを頼りにすることもできない。

八方塞がりで時間だけが過ぎていく。

どうするのがいいのだろうか、と考えていた夕暮れ時。ふと、道路脇に1枚の看板を見つけました。

 

『神田日勝住居跡地』

 

そう。昨日、テレビで見た看板です。

バイクを止め、ここからの景色を見ると、日高山脈が夕暮れで美しく染まり、

振り返ると夫婦山も赤く染まっている。初めて見るその美しさにしばらく見入っていました。 

すると突然、

 

『農業に携わればいいやん。』 

 

 頭の中に そんな声が聞こえてきました。

 

 それまで僕は大阪でやってきた仕事の延長線で

ずっと考えていましたから、農業に関わるなんて思ってもいませんでした。

しかし、鹿追は農業が基幹産業。

その現場を知ることは何よりも大切に違いない。

そう考えて、早速牧場の求人をインターネットでチェック。

目に止まった牧場へ電話をかけ、まだ募集している事を確認すると、

『明日には大阪へ帰るので、今日、面接してください!』とお願いして、

夜には親方の面接を受ける事ができました。 

旅から戻った1週間後、親方に電話してみると、無事採用していただけることに! 

しかも、働き始めるのは2ヶ月後の12月から。

家族にもその事を話し、移住の時期も4月ではなく1月の冬休みを使って

全員で引っ越すことになりました。


子供達もすっかりこちらの生活に馴染み、地元の人達と同じように鹿追での暮らしを

家族全員楽しめるようになりました。 

僕は今も酪農の仕事を続けさせてもらいながら、大阪でやっていた講師の仕事も、

時々はお話をいただくようになりました。

 

きっと、神田日勝が僕達を導いてくれたに違いない。今でもそう信じています。